◎四節の教学。氏子も無力。神も無力。その間を取り持たれたのが金光大神。信心の稽古とはお茶に呼ばれて、お茶のおいしさが分かってもそれは稽古ではない。おかげの味が分かっただけのこと。本気で教えを守る稽古がいる。そこから、金光大神様有り難うございますが、口癖ではなく心から頂けてくる。
%1お茶に呼ばれて。
%V%U
昭和四十三年十一月二日朝の御理解
X御理解第四節「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うに及ばぬ。金光大神、助けてくれと言えばおかげを授けてやる。」
%U金光大神御出現によって、初めて、天地金乃神様のおかげを受けられるようになった、と云うて、この神様は、金光大神によって誕生されたと云う神様じゃなくて、いわゆる昔からある神ぞと「天も地も昔から死んだ事なし」とおっしゃる様な、あったんですけれども、天地金乃神様の全貌と云おうか、その働きを、十全に表すことが出来なかった。
%Uそんなら、信心はなかったかと云うと、様々な信心はあった。それは、地の神だけを顕わされたり、又は、金乃神だけを顕わされたり、とにかく、その神様の一部分の徳を顕わしていかれたと云う信心はあった。それもやはり信心。
%U天地金乃神様のお働きを顕わす事が出来られたのが金光大神である。だから、金光大神あって初めて、ここに天地金乃神様のお働きの全部を、顕わされる様になったのも、金光大神のおかげだ。その、おかげを受けられる様になったのは、これは、氏子からも恩人になり、神からも又、恩人になると云うておられます。
%V%Uここで、ひとつ、本当に気付かしてもらわねばならん事はね、天地金乃神と云う神様は、ここに、神様自身が無力状態である事を、ここに暴露してある様な感じがします。
%V%U天地金乃神様、いわゆる全知全能でなくて、もうそれこそ、私共が、信心を分からせて頂けば頂く程、分からせてもらう事は、我無力であると云う事。まさに、障子ひとえがままならぬ人の身であると云う事が分かる。神様も又、金光大神に、こう云うておられる。「金光大神あって天地金乃神がこの世に出たのである。これから、おかげが受けられる様になる。」
%V%Uいかに、天地金乃神様とてもです。だから、ないのじゃあない。例えて云うなら、Zここに釣鐘がある。撞木がある。これは、どちらも、ブラーッとぶら下がっておる。あると云うだけでは何にもならない。神があり、氏子があり、そして、それをついて音色を出されたのが、金光大神である。
%V%Uだから、何とも云えん音色に聞きとれる。有難いなあと云う事がです、分からしてもらう。天地の働きはあっておるけれども、その働きを働きとして分からせて頂いたと、それは、金光大神の働き。云うなら、神様も無力であり、私共も無力である事を分からしてもろうて、そこに、純粋な「金光大神あって、神がこの世に出た」と神様がおっしゃる様に、金光大神あって、私がおかげを受けられる様になった、と云う事になる。
%V%U純なものと純なものの集まり、Z鐘が鳴るのか、撞木がなるのか、鐘との合いが鳴ると云う、鐘だけじゃ、どうでも自分で鳴る訳じゃいかん、撞木があったからと云うて撞木だけじゃどうにもいけん。その、鐘と撞木が、こう寄添うた時にです。鐘でもなからねば撞木でもない、その合いから、「生神金光大神天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にあり。」とおっしゃる様に、その和賀心がおかげを生みだしていく。
そこで、私は、この御理解第四節の中から思う事は、「金光大神の云う事に背かぬよう、よく守って信心せよ。」と、こうある。金光大神の云われる事に、よく守って信心しなければ、信心にならんのである。金光様の御信心は。
%V%1昨夜、月例祭が終わってから、今年初めて、茶室に火が入って、同時に、茶道道具を新しいのを二・三点頂いておりましたから、それを披露させて頂くと云うので、昨日、豊美がお茶を致しました。私共も、およばれをしたのですけれども、「ここには信心の稽古に交うて来る所。」とおっしゃる。これはどうゆう事かと云うと、金光大神の云われた事の意味の深さ、広さを分からしてもらう。金光大神が、又は、云おうとしておられる事。又云うておられる事。それを分からしてもらう。それを、いよいよ守ると云う所に稽古がある。
%V%1ところが、その信心の稽古に通うて来る所とおっしゃるのに、丁度およばれをして、お茶を頂く様にです。はあ、お茶はおいしい、又は、お茶の手前を見ながら、いいもんだなと云うて、そのお茶はおいしいもんだなと分かる事はね、これは稽古じゃないのですよ。お参りをして来よる、もう何年信心しよる、けれども、云わば、おかげの味が分かっただけでは、丁度それは、お茶をよばれておる様なものです。又、お茶をしておる人の手前を見て、いいもんだなと云うておるだけです。それは稽古にはなりよらん。
%V%1やはり、お茶の稽古をさしてもらうならば、お茶の先生の云われる、その手前のひとつひとつを覚えていって、お茶をさせて頂く事が、こんなにも楽しいものだ。だけではなくて、このようにおいしいものだと、両方が分かっていかなければ、稽古という事にはならない。
%Vですから、信心も又、同じ事が云えるでしょうが。「ここには、信心の稽古に通うて来る所」とおっしゃるのですから、そんなら、参っておりますから、拝んでおりますから、稽古しておると云う事じゃあない。参る事によって、拝む事によって、おかげの味わいが分かっていくと云うのは、一度、茶室に招じられて、お茶を呼ばれておる者と同じ事なんだ。
そこで、やはり、手前を覚えさせてもらわなならん。それが、お茶の稽古であり、信心の稽古と云えば、いよいよ金光大神の教えて下さった事をです、いよいよ深く広く分からしてもらい、それを行にしていく所から、「金光大神の云う事によう守って、そむかぬように」とおっしゃる、その、そむかずによく守っていく所から、金光大神の云われる広さ、深さがいよいよ分かっていく。いわゆる、仕事が仕事を教えていくように、信心が信心を、いよいよ深いものに、いよいよ広いものに、おかげが頂いていけれると云う、「まさかの折には、天地金乃神と云うに及ばぬ」自分の身に心に頂いていく事でございますが。
金光大神あって、神が世に出たと、金光大神に感謝の意を、天地の親神様に表しておられるように、私共も、ここに、金光大神あって、このようなおかげが受けられるようになったと云う、そのおかげを頂かしてもろうて、初めて、金光大神の光がそこに出てくるのである。
云わば、もう心の底から「金光大神様、有り難うございます。」と云うおかげを頂かしてもらえれる、日々刻々です。「金光様、有り難うございます。」と、心の底からお礼を申し上げるのは、この御理解第四節の内容と云うか、そうゆうものを分からしてもろうて金光大神の云う事をよく聞いて、おかげを受ける所から、初めて、「金光様、あなたのおっしゃるとおりさせて頂いておりましたら、このようなおかげが受けられる様になりました。」と、そこに、金光様有り難うございます、でなからねばいけない。
%V唯、口癖のように「金光様、有り難うございます。」だけではいけない。金光様の教えて下さった事を、こう守らせて頂いとりましたら、このようなおかげが頂けるようになりましたと、そこから、「金光様、有り難うございます。」が云えれる信心を、いよいよ頂いていかなければならない事を、ここでは、分からせて頂きますですね。どうぞ。